ShiNGo’s diary

適応障害の私が今まさに感じていることを書き連ね、変化が起こる事を期待しているブログです。

【適応障害】これまでの経緯190509

これまでの経緯を自分なりにまとめます。

そうする事で自分を見つめ直し、心の整理ができればと考えています。
長文ですので読みづらかったらすみません。

何か書き方や文章の構成でこうした方がいいとあれば遠慮なく仰ってください。

勉強になるので是非お願いします。


そもそもはじめたてなので読まれることはないと気楽に思って、とりあえず形式に拘らず書いていこうと思います。

 

 

…私は小さい頃から心の片隅で『他人とは違う』と感じていました。

それは『他の人より優れている』という考えではなく、『他の人より劣っている』という考えでした。

• 何をするにも深く考え過ぎてしまう。
• ふとした些細な仕草や発言が敏感に伝わってしまう。
• その仕草や発言の意図を模索してしまう。

そして様々な対応策が生まれてしまい、すぐ最善の対応策が選択できれば良いものの、本当にそれでいいのか、そもそも正しい事とはなんだと原点回帰してしまうことまでありました。

結果何も言えない・行動できなくなってしまうことが多々起こってきました。
「考え過ぎだよ」とよく言われてきました。

この経緯は幼少の頃からの厳しい家庭環境や、いじめを受けていた中高校生の頃の影響かなと思っています。

私の両親は教育に熱心でした。
父母とも地方から高卒で東京に出てきて働いてきたので自分の子供には教育を受けさせたかったのだかもしれません。とにかく厳しい家庭でした。

何か私がミスをすると母親は布団叩きで私を殴打してききました。
未だにフラッシュバックするのですが、畳の部屋で布団叩きを手に持つ母親を前に、後ずさりをしながらペタンとお尻をつける自分。
後ろに後ずさり押入れに背中が当たると『もう逃げられない』と幼いながらに覚悟を決める、そんな思い出があります。

虐待といえば虐待かもしれませんが、当時の本人としては「私が悪いんだ。ごめんなさい。ごめんなさい。お母さんの理想の子供じゃなくてごめんなさい。」と思っていました。
そして両親の顔色を常に伺う様になっていったのです。
どうしたら母親の機嫌を良くすることができるだろう、どうしたら褒めてもらえるだろう、という考えから承認欲求が強くなってしまいました。

そして嘘つきになりました。
その場しのぎの事を言うようになってしまいました。

中高になると私は『嘘は言ってはならない』と強く思うようになりました。
自分が許せなかったのだと思います。
そしてそれを忠実に守り抜くことにしました。

嘘は言わない。
でも本当の事も言わない(なんでしゃべったと言われない為)。

周りからは口が固い人間だという認識に至ったのだと思います。
そして中高生にはその場しのぎの事を言っているということが伝わったのでしょう。
たちまちいじめの対象になりました。
私立でありがちな、陰湿ないじめでした。

私は何より両親を不安にさせたくなかったので助けを求めることが出来ませんでした。

地獄だった。
死のうと何度も思った。
でも臆病者なのでできませんでした。

…大学生になりアルバイトを始めてから、周りの人間関係が一新し虐められることはなくなりました。

大学は良くも悪くもなかったのですが、アルバイト先は本当に居心地が良かったのを覚えています。

色々考えてしまうことは相変わらずでしたが、決断し発言をするようにしました。
正解かはわかりませんが。

そして商社で勤めはじめ、アルバイト時代から10年程付き合っていた現妻と結婚をし、順風満帆とはいきませんでしたが慎ましく暮らしていました。

私はその商社への不満がありました。
端的に言うと給料です。
年収400万に満たない生活で、業界の景気と周りの人を見る限りこの先昇給も見込めませんでした。

私は何よりも妻を優先していました。
妻の笑顔を見たくて常日頃から努めてきました。

そして昨年の5月から本腰を入れて転職活動をし、昨年8月に退社、OA業界に入りました。
ところが、残念ながら転職は失敗しました。

転職支援会社の方の話しと全く異なっており、その入社した会社で半分精神を病んでしまいました。
1〜3年放置していた既存のお客様の深耕と聞いていたのですが、あまりにも評判が悪く、お客様のはずなのにお伺いする度に怒号を受けました。
そしてある日、急に過呼吸を起こしてしまい仕事ができなくなりました。

妻の父親は経緯は違くとも仕事のストレスから精神の病にかかり床に伏せ、胃癌を患い、辛い気持ちを言葉にしないまま突然8年前、自宅で朝方亡くなってしまいました。
堪え難い苦痛であっただろうに、言葉に出さずに自宅で亡くなりました。
癌だった事は亡くなってから知りました。

この忘れてはならない過去を忘れてしまう程、私はおかしくなってしまっていました。

妻の為に、子供が欲しいと言わなくなってしまった妻の為に、言わない状況にさせてしまった現状を脱却するために転職したにも関わらず、自分でもおかしくなっている事に気づけず、ある日突然この歳でふと妻を抱き締めた際に涙をこぼしてしまいました。

自分もお義父さんの様に心の病気になるかもしれませんでした。
実は妻はそれをとても恐れていました。
なのに、ただただ抱き締め返してくれていました。

何と言えばいいのかわからなかったそうです。
妻も苦しんでいました。
私は自分が妻にしたかったことのまるで逆をしてしまっていました。

妻は父親が亡くなった時も涙を流さなかったのに、初めて涙を流しました。

「お義父さんと同じ思いはさせない」と誓い、
妻は「それだけはお願いします」と懇願しました。

最終的に嫁からの「しばらくはなんとかなるから、明日にでも辞めていい」の言葉から辞めました。

転職エージェントの方も「そんな会社だとは把握しておらず、大変申し訳ございませんでした。ShiNGo様の職歴が汚れてしまった事は全力で次の就職先へ説明し、フォローさせていただきます」と言っていただけたものの、中々信用が出来ず仕舞いでした。

そうして1ヶ月ほど療養し、いつまでも休んでいられないので本腰を入れ始めました。
手始めに商社の頃の仕入先だったメーカーの方々に恥を忍んであてはないかメールでお伺いを立てました。
ところが厳しい業界のためと、私の年齢もあって全滅でした。

そんな時です。
昔の友で現在取締役をしている人が、建設業者の空調業界で所謂職人の仕事をしないかと声を掛けてくれました。
私は藁をも掴む思いだったのと、やはり運命はあるのだなと思い、喜んで受けてしまいました。

ですがこれも言っていた事が違っていました。
毎朝4時起きで定休は(日)(祝)と聞いていましたが出勤することが多々起こりはじめ、代休もなく20連勤は当たり前になりました。

単純に人が足りておらず、そこに丁度私を見つけ、捕まえた様です。
そう白状されました。

こちらは単純に体力の問題であり、精神的にはそんなにやられていませんでした。
ただ、日曜の義母の介護が出来なくなるとなると話が違います。
夫婦の時間もほぼ皆無となってしまいました。

そしてある日、妻が倒れました。
実は片耳が聞こえ辛くなっており、そこからメニエール病を併発したようで、平衡感覚を失ったような気持ち悪くなる症状が起こってしまいました。

また。
また我慢させてしまっていました。
もう片耳は治らないそうです。
生死に関わる程ではないものの、私からしたらその状況は地獄であり、ドン底にいる状態でした。

そんな時に連絡をしていた商社の頃からのメーカーさんから「うちじゃないんだけど、人が欲しいと言っているメーカーがあるんだけど、話だけでもどうかな。」という連絡を頂きました。

空調業界で働きながら同時進行でそのメーカーと会い、話をしました。
トントン拍子に決まりました。

ある日その空調業界で仕事中に骨折をしてしまいました。なのに出勤しろと言われました。
いや、手を骨折してて出勤って無理だろと思っていました。案の定役には立たず、あっという間に落ちていきました。

骨折を理由に会社を休み、人生初の心療内科に行ってきました。
軽度のパニック障害HSPによる適応障害と診断されました。(HSPに関しては後日別でお話しします)

数ヶ月に一度、決まって朝の通勤の電車の中で急に息苦しくなり脂汗が出て意識が遠のいていき立っていられなくなることがあったのはパニック状態だったからだとようやく判明しました。

診断で、「本当に何でもないですよ」という言葉を期待していました。
そうすれば「なんだ、ただ落ち込んでるだけだ。健康なんだ」とわかったはずなので。

ところが実際に適応障害と診断されるともうダメでした。
熱っぽいからと熱を測った結果本当に熱があった時に途端に体調が悪くなる、あの身体の感覚の心バージョンでした。

適応障害と診断されるまではこのHSPという言葉は知りませんでしたが、この性格(気質)とはうまく性格と付き合ってきたと思います。
『確かに考え過ぎかもしれない、けれど人の気持ちを考えない方が私には考えられない。そんな人間にはなりたくない』という考えが私の根底にあったからです。

そして先月16日から上記の元の業界のメーカーに勤め始めました。
既存の知っているお客様には会ってお話しして全く問題ないのですが、今まで知らなかった方、行ったことのない店舗へ取引先とはいえ飛び込みのような形式でお伺いするのは本当に辛いものです。

過去に知っているメーカーさんに同行してみるのがいいかなと思っていますが、まだ実行できていません。

まだ周辺設備が整っておらず(PC配給がまだ)、本格的に仕事は始動はしていません。

今後どうなるのか不安な5/9現在です。

商社を辞めてから怒涛の8ヶ月で正直いっぱいいっぱいです。


今日飲みに行こうと言われました。
上司2名とです。

2人ともとても良い方です。

なので期待に応えたい。

ところが私はこの2人と会社に適応障害のことを伝えていません。

OA業界の時に半分病んでしまったとは面接の際に伝えましたが、軽度パニック障害及び適応障害のことは伝えていないのです。

面接の時に「はっきりとした病名はあるのですか?」と言われたら答えようかと思っていたのですが、聞かれなかったため伝えていません。

言えば不採用になってしまうという恐怖から言えませんでした。

ずるい男です。

 

ですが今日、首覚悟で言おうと思います。

「そんな事なら違う人を入れた」と言われたらそれまでです。

怖いです。
物凄く怖いです。

でも、このままだとまずいとも思うので伝えます。

どうなるかはわかりません。

帰れば妻がいる。
今から6時間後には妻に会える。
ただその救いのために、頑張ってきます。

 

読み返すととてつもなく酷い文章ですね…。

後半は文章が単調になった上に支離滅裂。

我ながら「まとまってないじゃん」と思います。

今日の帰りにでも読み返し、修正できる時にしていきます。